【教養とは】「東大教授が考える あたらしい教養」教養のある人とは?  

読書
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みなさんは「教養のある人」と聞いたらどんな人を思い浮かべますか?

知識のある人ですか? 有名大学卒の人ですか?

この本では、東大教授が「教養がある」とはどういうことかを説明しています

今回は私の見解も交えながら紹介していきます!

結論から言うと、「教養がある=知識がたくさんある」ではありません

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教養とは?

まずは教養と訳される3つのものを見ていきます。

①リベラルアーツ

これは古代ギリシャの言葉です。このころは奴隷制度がありました。

人間が奴隷ではなく独立した自由な人格であるために身につける学芸と定義されています。

②ビルドゥング

これはドイツで発祥しました。

学問の専門化が進み、特定の分野しか知らない人が増えました。

この現象に対して、幅広く物事を見ることができる、固執せずに全体を見ることをできようにすることがビルドゥングです。

ジェネラル・エデュケーション

これはアメリカで生まれたもので、知識や情報を基盤に探求を行っていくことです。

現代の知識ベースで議論していく形に近いように感じます。

教養=知識量ではない

これらを見ていてもわかる通り、教養とは知識量ではありません。

教養とは、知識をベースに建設的に議論していくことです。

日本の教養とは?

日本では、知識のある人が教養のある人と考えられています。

当時は、教養とは文学を読み、その時代の文化を理解することや海外から情報を得ることだと思われていました。

しかし、日本も先進国になるにつれて、周りにお手本がいなくなり自分で問題を解決する力を求められています。

なので、教養とは「考えること」「議論」を通して問題を解決することだとこの本では言っています。

日本と海外のサッカーコーチの仕事

海外の選手は自分で考える習慣がついているので、コーチの仕事は選手をまとめることです。

しかし、日本の選手は自分で考えることが苦手なため、コーチの仕事は考えさせることになっているようです。

みなさんもテレビで監督が選手たちにミーティングをさせている様子を見たことがあると思います

海外の選手は、そんなことをしなくても勝手にします。

日本と海外では考え方が違う

海外の人たちが自分で考えることができる要因の1つに教育があります

フランスの教育では「答えのない」ものを解決していくことが重視されているようです。

日本でいうところの小論文です。

自分で論理を立て、相手に伝えるというトレーニングが行われています。

しかし、日本で行われている教育では「正解が必ずある」ということです。

これでは、考える力は必要なく暗記力が鍛えられるだけです。

そしてこれが、問題解決能力の無さに繋がります。

教養をつけるトレーニング

本の中でも言われていますが、「本当の教養」の正解はありません。

この本で考えられている教養は議論を通して幅広いものの見方をしていくことです。

私は教養があるというのは「情報をつなげることができる人」と思っていました。

このように、色々な背景の人がいるので「完全に理解し合うことは不可能です」

異分野間で交流する

自分の専門分野内で交流すると意見が合いますが、異分野間で行うと前提知識が異なるため全く結果が異なります。

これに対して、「相手が違う」と考えるのではなく相手が大切にしている考えを知り、自分の考えとのバランスを取ることが大切です。

このようにすることで広く物事を見ることができます。

最低限の知識は必要

異分野間で話すうえで必要なのは「最低限の知識」です。

人はバックグラウンドが異なるので基本的に分かり合うことはできません。

しかし、知識は共通言語になります。

これがないと議論が薄くなり、感情論的に議論が展開していく恐れがあります。

また、「自分の専門分野をもつ」ということは「考える、思考の軸」があることに他なりません。

私は言語学習に大きな時間をかけたので思考の軸はそこにあるのかなと感じます

軸があることで考えるベースができ、議論が建設的に進む助けになります。

情報をどのように処理するか

①複数から情報を得て共通の「正しさ」を探す

②話していて感じた「違和感」「怒り」をメモして分析する

③学んだことはしゃべって自分のものにする

④本は疑いながら読む

以上が、情報に対しての筆者の考え方でした。なかなか面白いですよね

私的には②が面白いなと感じました(‘◇’)ゞ

まとめ

教養ある人になるには幅広く知り、議論をしていくことということが分かりました。

本の中の例でもありましたが、原発事故で医者が被爆者に対して「その程度の量なら問題ない」と言ったようですが、これでは被爆者の気持ちに寄り添うことができていません。

医学の見地でしかものを見ることができていません。異分野をしり、患者に寄り添うことができればこのような不快感を与えることはなかったのではないでしょうか?

教養とは偏差値の高さではありません

幅広く知り、色々な人と話すことを通して色々な見方のできる人になりたいですね(*’▽’)

最後まで読んでくれてありがとうございます!!

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